朝散歩しているときの親子の会話。
僕:「暑いな−。汗でびっしょりだよ、、、。」
同じ散歩という行動を取りながら、
僕は暑いという環境についてや、自分の体の生理現象に目を向けている。
一方で息子は、植物の葉っぱの上にいる虫や、木々の間を走り回っている小動物に目を向けている。
これって当たり前のことですが、普段なかなか意識できてなかったりしませんか?
それぞれ見ているものが違うということは、考えていることも違うし、日々積み重ねているものも違うということ。
少なくとも僕は45年間生活を積み上げていて、自分なりにはいろんなことを見聞きしてきたつもり。
息子の方は約9年間。
互いに共通する経験、視点もあると思うけれども、先の例からもその殆どは全く異なっているということ。
(それぞれの持つ重要度が異なるから。RASとか網様体賦活系の働きとか脳科学の本などでは言われているもの)
というよりも、親の視点というものについて、子供はなかなかイメージがつかないのではないか?
考えてみれば当たり前なのですが、今更ながらそんなことを思うようになりました。
息子にはこれまでの9年間、家や団地、保育園、幼稚園、小学校で過ごしてきた経験がベースにあり、
僕には45年間、幼少期も含めて色んなところで積み重ねてきた経験があります。
ベースがあっての今。
どちらが良い悪いではなくて、事実としてそうなっているということ。
ということは、
親がいろんな知見や経験を子供に対して、先取りしていろんなことを伝えたとしても、
子供にベースがないとなかなか伝わらないし、それよりも彼自身にはすでに、「今」やりたいことがあるわけです。
(つまりは子供は今、ベースを作る時期だから、ベースを作るために、それぞれの興味関心に沿っての行動を自然ととるということ。)
そんな子供のことを無視して、「良かれと思って」子供がやっていることを制して、親が、やらせたいことを押し付けていないでしょうか?
僕にはこの押しつけが結構ありました。
今では大分減ったと思いますが、まだあると思います。
子育てについて、学ぶうちに、子育てとは結局、「子供と向き合う中で、自分自身と向き合い、自分がどう生きていくかを考え、行動していくこと」と考えるようになりました。
なぜ子供にこうも押し付けてしまうのか?と考えると、自分も同じように、これまで生きてくる中で、殆どは幼少期に、様々な押し付け(親、学校、社会、テレビ等から)によって、好奇心を失わされ、誘導され、いつの間にか他人の人生を生きてしまっていたからということに気づくわけです。
ということは、
結局のところ、自分の人生を取り戻すための鍵は、幼少期にあるわけですから、
ならば、最初から、子供の日々の試行錯誤を見守って、ともに味わう。
そして過度にならない程度に、子供がいろんなことに興味が向く環境づくりだけはしておく、そんなスタンスで生きることがいいのではないかと思うようになりました。
散歩の話から飛躍しましたが、
「人によって視えている世界は異なる」
これは、子育てのみならず、対人コミュニケーションにおいて、必ず前提として持っておかないとならないこと重要なことだと、息子から教えてもらいました。
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