なぜ「有り難い」の意味が分かると行動が変わるのか?

帝王学

前回のブログで、「先延ばし、後回しにするのを止めた。」と書きました。

 

その直接のきっかけは、寝たきりになってしまった、親戚を目の当たりにしたから。

 

いつどこでどんなことが起こるか分からない。

 

もしかしたら明日私も交通事故にあうかもしれないし、家族に万が一のことが起こるかもしれない。

 

本当にそうなったら、

 

「家族でもっと旅行に行っておけばよかった。」

 

「妻や子供との時間をもっと取っていればよかった。」

 

「我慢することなく、好きなところに住んで、自分のやりたい仕事をやればよかった。」

 

などと後悔ばかりが心に残り、より荒んだ気持ちになってしまうと想像します。

 

やってもやらなくても後悔の気持ちは残ると思うけれども、どうせなら、ちゃんと実行してから、後悔をした方がいい。

 

上手くいくまでやり続けたらいい。

 

私は、そんな風に思っています。

 

行動しようと思った時に、実際に動ける人と、そうできない人との差。

 

それは、

 

何が何でもやるという意識。

 

やらなければならない理由。

 

それがあるかどうか。

 

それがなければ、「まいっか」と後回し、、、。

 

人間の本質的な欲求、

 

「痛みを避けて、快楽を得る」です。

 

やらなかった時に感じる痛みの方が、実行する前の準備の煩わしさや、気持ちの悪さ、人目を気にして、人から何かを言われる恐怖心、

 

また、お金を使う場合は、懐の痛み、短期的な生活レベルを落とさなくてはならず、我慢を強いられるなどよりも勝る時に、行動できると思います。

 

厄介なことに、それらが、実行した時の痛みよりも、何倍も大きいにも関わらず、実行しなかった時の痛みはすぐにはやってきません。

 

だから人は行動を後回しにしがちです。

 

大概は、怪我や病気に関する健康に関することや事業の失敗で借金を負う、急な身内の病気のために多額のお金が必要になるなど、

 

お金に関することなどが起こった時、初めて顕在化し、一気に後悔へと変わっていきます。

 

何が何でもやるという意識。

 

やらなければならない理由。

 

これを自分自身で持つことは、私の経験から言っても、本当に難しいと思います。

 

莫大な借金を抱えたり、命に関わる事態でも起こらない限り。

 

だから成功者には、大きな事故にあったり、失敗をしていたり、恵まれない幼少期を過ごしているなどの人が多いのかも知れません。

 

 

一方、悲惨な経験をすることなく、自らの言動で、行動することに力を与えられることも、帝王學で学びました。

 

それは、「全てのことが有り難い」と思うことです。

 

そもそも自分自身が生まれたことが奇跡であれば、今こうして、自身がここにいるという事実は幾度の奇跡が積み重なった事なのでしょうか?

 

何百年何千年にも渡る、ご先祖様からの奇跡的な命のリレーも受け継いで。

 

人体60兆もの細胞が活動し、心臓が鼓動し、呼吸することができ、目が見え、耳が聞こえ、手足が動き、話すことができること、、、、。

 

全てのことが「有り難く」、奇跡の連続であるという事。

 

それを教えて頂いた時に、「命の重み(有り難さ)」が胸にズシンと響きました。

 

それだけの出来事を経て、私たちは生まれてきています。

 

ならば、それぞれに果たさなくてはならない使命があるはずなのです。

 

そう思うと、その使命を全うするために行動しようという「力」が自然と湧いてきませんか?

 

成功者は、自分自身や自分の家族が豊かに幸せになりたいという願望から、

 

さらに進んで、地域や会社や国や自然や、世のため、人のために何ができるか?と言った大きな視点でものごとを考えています。

 

成功しても失敗しても、失敗は成功のもと(うまくいかない方法が分かって良かった)と、また行動し続けます。

 

全てが「有難く」て「有り難い」奇跡なのだから。

 

私も大きな夢を描き、利他の精神で、感謝の気持ちとともに、活動していきます!

(自戒の念を込めて。)

 

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